Thank You Lord! かみさま ありがとう

1. 証しの大切さに思い至る

私はいつ頃からかよくお財布を無くす様になった。その度に大騒ぎをして、主人に見つけてもらい
「一割御礼をもらおうか」などと揶揄われることも度々だった。
ところがある時気がついた。もうこれ以上さがせない、という時になって「神様助けて下さい」と口づさむ、
すると大抵間もなく見つかっているのだ。今度からもっと早くお祈りをしよう、と考えた。でも、
見つかった時には、ああ良かった、感謝、感謝で終わらせていた。

ある時、昔、先輩が言っていた「栄光泥棒」と言う言葉が思い出された。私たちは、
神様に帰すべき栄光を盗むことがあると言うことだった。そんな事はしていない、
と思いながら、自分の姿を思い浮かべると「ああ良かった、感謝 感謝」とは言うものの、あらためて神様に
栄光を帰すると言う態度とは言えないのではないか、と思い至った。そして「あかしをする」と言うことの、
大切な事を思い知らされた。大きいことばかりでなく小さなことでもである。

ところが、ここでサタンの声を聞くことになった。そんな証しを聞いた人が、何でも祈ったら見つかる
なんて思って、真似をして見つからなかったらどうする?神様のためにはならないのではないか?
私は口を開くことができなかった。

それからどのくらい経った時だったか、突然ダビデ王が契約の箱を運び出した時のことを思い出した。
箱が揺れたのでウザが支えようとしたために、神様の怒りにあって療病になったと言う箇所である。
(第二歴代誌 5 章)
私はすぐに自分の誤りに気づいた。神様のご領ではないか。そして、あらためて「神様に栄光しする」
事を決心した。お礼はちゃんとお礼をべき方に言わなければならないと肝に銘じたのだった。

それから間も無く、アメリカに越してからのことだったが、少し早めに教会に行き、お昼の支度をして
いる台所に顔を出すと、義弟の武田牧師の眼鏡がなくなったので、みんなで探しているところだと言われた。
今日は礼拝が終わったらすぐに出かける予定があるので、礼拝前にみつけなければ、とみんなで探して
いるところだった。
私は目を閉じひとこと祈ってからみんなが探している二階に行き、「どの辺を歩いたと思うの?」と聞いてから、
そこにあった衣類が詰めてあるダンボールの箱に手を差し込んだ。するとそこにメガネがあったのである。
あまりの呆気なさに驚いた。みんなは、「ああ、良かった」で終わったのだが、私はあまりのことに恐れを
感じるほどだった。

続いてその週の婦人会で、私の証しを聞いていたその家の方が、集会が終わった時、ちょっと席を外
したかと思うとすぐに大声で何か言いながら戻ってこられた。実は集会前に車のキーが見つからず、集
会後すぐに息子を迎えに行かなければならないので心がそのことでいっぱいだったのです、との事。とこ
ろが何と鍵は車につけたままになっていた、と言うのだった。
神様が私の不安を取り除いてくださったと思った。

2. 飛び出したお財布

アトランタからペンシルベニアの息子の家を訪問しての帰りのことだった。アトランタまでは私たちの
運転では十時間以上かかるので一泊しての帰途になる。四、五時間ドライブして私たちは休憩所に寄り、
車を降りて真っ直ぐ二十メートルほど行った所のトイレに寄った。
戻ってきた時に、主人の様子が変だった。いきなり途中にあった大きなゴミ箱のところに行って中を
かき回している。何?どうしたの?と聞くと、ショックを隠しきれない様に「財布がない」と言う。
まだ訳が分からず、聞きただしてみると、とにかく財布がない、お金だけでなくカード類も免許証も入っている、
との事。この誰も知人のいない地で大変な事。私たちの英語は誰かに助けを求める力もなかったのだ。

私は車のドアに手を置いて祈った。そして主人に、何故ゴミ箱をかき回したのか、と訊ねると、
はるか向うから見えたのだが、この車のそばを通りかかがしゃがんで何か拾った様に見え、その人と
違う時によく見たけど財布は持っていなかった。でもその人が途中のゴミ箱にゴミを捨てていった様
たから⋯と言う。そこで私もゴミ箱に行ってみた。大なゴミ箱でビニールの袋が中にかけられてい
下の方は見えない。私は思わずその端を掴んで長った。すると財布が飛び出してきた。
「何と感れば良いのだろう。あの人は確かに車の脇に落ちていた財布を拾ったのだ。
古い財布ではあったが、お金も入っていたのにどうしてゴミに見えたのだろう。お金が見えなかっ
たのだろうか。それは奇跡だ。この時の私たちには、彼の手にあったとしたら「それは私のものだ」
と説明することはできなかったし、もし、どこかに届けられても、その手続きを踏んで返してもらう力もなかった。
免許証がなければ息子の家に戻ることもできなかった。何と一番良い方法で解決していただいた訳だ。
感謝に溢れてアトランタに帰り着くことができたのだった。忘れられない思い出である。

3.ほっとした朝

二〇〇七年四月のこと。アメリカでの生活にも大分慣れた私たちは、時には、日本から来られるご家族
を迎えながら、時間がなくてご案内が出来ないで困っている方のお手伝いもするようになっていた。
青森の鯵ヶ沢から娘さんのところに来ておられたお母様が、美容師である娘さんの(仕事の間)が
耐えられないで困っているとか、せっかく来てくださったのに予定があって観光もさせてあげられない、
と言う方、ご兄弟が揃って来てくださったのに案内ができない、という様な方があり、私たちに出来る
ことならばとお手伝いもしていた。勿論私たちがご案内できるところはまだまだ行き慣れたところ
だけだったが。
この日は同窓の高梨さんがお嬢さんと二人できておられた。牧師である妹夫婦も同窓なので、
楽しみにしてお迎えしたのだが、あいにく教会で午後のプログラムがあり、妹夫婦は相手ができないと言うので、
私たちが行き慣れた観光地ヘレンにご案内することになった。
山の中にぽっかりと存在するおとぎの国のようなへレンはみんなに好かれている私たちも大好きな観光地。
その途中にはキャベツ人形で有名になったところもあり、そこも楽しむことができる。
キャベツから生まれる赤ちゃんを、養子縁組の書類を書いて連れて帰ることができると言う、変わった
人形の買い方で評判だった。あんまり可愛い人形ではないのだが、そんなことから有名なところになっていた。
私たちもそこをみて、更にヘレンを目指して行ったのだが、この日は自宅からではなく、教会から出発だったので、
いつもと違う道から行かなけれはなかった。
キャベツ人形の家を見て最後の分かれ道まで無事に行ったのだが、そこから、私たちのお喋りのためか、
運転していた主人が道を間違えてしまった。
おかしいと気付いてからも戻る所がないまま、尋ねようにも誰にも出会わないまま、全く違う素晴らしい
景色の展望台に着き、そこも楽しんだり、どうやら二時間ほどウロウロして、ようやく前から来た車の
方に道を尋ね、更にもう一度出会った方にと、2回ほど道を尋ね、夕方になってやっとヘレンに
到着した。
とにかく、念願叶ってそこで夕食を済ませ、夜10時近くにお二人を教会まで送り届けることが
出来たのだった。
さて翌朝、何とタイヤがパンクしてペシャンコになっているのに気がついた。
早速すぐに、娘が契約しているAAA 会社に電話をしてタイヤ交換に来てもらったわけだが、あの迷子
になっている時だったら⋯と思うとゾッとした。その時、私たちはAAAのメンバーに入っていなかっ
たので、すぐに手続きをして入ったのは勿論だったが、もし、娘に電話をしてその頼みで来てもらうこと
ができたとしても、あの山の中で迷っていた時だったら、自分が今いる所がわからなかったのだから、
どうなったことだろう。今なら居場所も調べられると言われそうだが、当時の事、思い出す度に、あの状況で、
神様に守られていたことを思い出しては感謝の冷や汗をかく思いになる。

4.東京に大雪の降った日

まだ日本にいた時のこと。その日、我が家の車は珍しい大雪で畑の脇にすっぽりと埋まっていた。
車庫がなかったので、道路から妹の家と塀の脇の狭いところを通ってそこまで入って停めていた。

静かな日だった。このまま1日が終わるのかと思われたのだが、思いがけない電話が入った。教会員
の O さんの家が火事で焼けて、ご家族が柿生の警察署におられるというお知らせだ。
私と主人はすぐに駆け付けなければならない。支度をして車に向かい、雪を払い落として、道路までの
道の雪かきをし、公道に出た。
さてここ愛川町はちょっとした高台なのだ。厚木の駅あたりからは百メートルも高いだろう。まして
これから向かうのは一気に川まで降る急なカーブの続く坂道だ。雪国の運転には慣れているとは言え、
この道をチェーンなしで下るのはとても注意しなければならいのが分かる。でも、その時私たちは一刻も
早くという思いに取り憑かれていた様に思う。
走り出した時、前に一台小さいダットサンのような車が、のろのろと動いていた。ちょっとイライラ
しながら、焦る気持ちを抑えながらやっと平地まで辿り着いた。
しばらくした時その車が消えていることに気づいた。私は、あの車どこで曲がったの?と主人に問いかけた。
主人も気が付かなかった、と言う。曲がる道があっただろうか、と考えたのだが、その時、
「あれは神様が送って下さった天使の車だったのではないか」と気づいた。私たちがスピードを出し
すぎないように⋯忘れられない小さな車だった。

5.大金を紛失した日

その日、私は、午後から横浜での結婚式にでかけるため、バタバタと忙しく準備をしていた。
どういう経緯だったか忘れてしまったが、私は二百坪余りの畑を挟んだ義妹の家から自宅に忙しく帰ってきて、
身支度を済ますとすぐに出かけて夜遅く帰宅した。
その日、何かの目的で大金十万円を入れた封筒を持ち帰った筈だったのだが、翌日探したところ見
つからない。大変だ、と必死に探したが見つからず、必死の思いで祈った。

神様、あのお金が必要です。どうぞ見つけられる様にしてください、と祈りながら必死に
探しても見つからない。
三日目になった。義妹の病院が昼休みになって、義妹が畑の花を見に出てきた様だ。気がつくと義妹
が何か叫びながら手を振り回している。私は急いで縁側のガラス戸を開けた。「お金が、一万円札が飛
んでるのよ。もう七枚⋯」私は思わず「あと三枚あったら私のよ」と叫びながら庭に飛び出した。
行ってみると、今は車が出ているが、その輪だちのあとに封筒が張り付いていて、そこには三枚の一万
円札がみえていた。そうだ。あの日、ここで落とした封筒が雨の中タイヤの下になり、天気が回復したた
めに乾き、この風で一枚一枚吹き上げられていたのだ。
でも、この時、妹がいなかったら、また風が十五分早かったり遅かったりしたら、お金はお隣に飛ん
で行ってしまったことだろう。何と一枚も失われず手元に戻していただいた。
ただただ感謝の一言だった。

6. 赤い車の天使

アメリカ生活の第一歩は車で動ける様になる事だった。どうやら近くの店には行くことができる様に
なった頃のことだった。新車だったので考えてもいなかったのだが、パンクしてしまった。
郵便局から出てすぐのところだった。幸い脇に補足の道路があったのでそこに寄せて停めることが
出来た。さて、昔はよくタイヤの交換もしたことはあったのだが、ここアメリカでは初めての事。
どうしたものかと考えていると、すぐ後ろに赤い乗用車がとまって若い男性の方が降りてきた。
手伝ってくれる様だ。でも、アメリカで何かあったらまず銃を用意する、という話を聞いたことがあったし、
ロックをして窓から「ポリスを呼んでください」と書いた紙を出す事、などと
恐ろしい注意を受けていたのだ。
この赤い車の方がどんな人なのか私たちには分からなかった。でも、この方は事態を察するとすぐに
工具入れを見つけてタイヤを外しにかかられた。ところがこの新車のタイヤは専用の鍵がないと
外れないようになっていた。鍵のありかと言われても私たちには初めての車でわからないでモタモタしていると、
彼は自分でダッシュボードの中からこれだというものを見つけて、すぐにタイヤを取り外してくれた。そして
今度はスペアのタイヤも見つけてくれたのだが、空気が足りていない。
一瞬困った顔をしていたが、意を決した様に、自分がスタンドを探して空気を入れて戻ってくるから、待っ
ているようにと言うと行ってしまった。
呆然としていた私たちは我に帰って娘に電話をかけた。
とにかく名刺をもらって幾らかでもお渡しする様にと言うばかり。30分ほどで戻って来たその人は、
タイヤをつけ終わるとお礼のお金は受け取らず、名刺だけを置いて、「グッド ラック!」と言って行って
しまった。
結局19年のアメリカ生活でただ一回のパンクだったが、あの赤い車は天使の車だったのではないか
と思っている。

7.届けられたお財布

ある金曜日のお昼の事。主人と二人でハンバーガーを食べて帰宅したのだが、気がつくと
お財布が無い。すぐにお店に戻って店員さんに聞いてみたが届いていないと言われた。
すぐに銀行関係には電話をして止めてもらったが、いろいろなカードが入っているのでその一つ一つの
始末は大変なことになる。週末だったので何も出来ず、週が明けたら直ぐに動かなければならないと
覚悟を決めた。暗い気持ちで日曜日、礼拝に出席。「又お財布を無くしたの?」と親しい友達には呆れられたが
そそっかしいのは事実だ。ところがその礼拝からの帰り、まだ車の中にいた時に娘から電話があった。
「今、黒人さんがお財布を届けに来てくれた」というのだ。
あのハンバーガ一屋さんで財布を見つけて、中を見たら自分の知っている住所だったので自分で届け
るつもりで持ち帰った、という。お金もカードも無事だった。
娘もあまり驚いたので名前も聞かずお礼も十分に出来なかったとの事。このアメリカで何回もお財布を
無くして全部戻るなんて驚きだと言われる。ただただ感謝のほかない。

8.ガソリン スタンドで

アトランタは大きな街で、日本食の材料も何とか調達することができる。韓国人のスーパーが三ヶ所
ほどあって、私たちが欲しがる様な材料も売っている。
と言ってもその買い出しは大変だ。私は大体週に一度か十日に一度と決めていたが、
ハイウェイを使わないで片道一時間ほどのドライブ。
お昼もその近くで済ませるので三、四時間のお買い物になる。
ある日、家を出た私はガソリンが少ないことに気がついた。
でも、向こうに行ってからでも大丈夫そう。大きい道路に出る前にスタンドに入る別れ道があるので
「神様、ガソリンを入れるのを行きにしましょうか。
帰りにしましょうか」と呟いた。その時、信号が変わったので自然にガソリンスタンドに入ることになった。
ところが、ガソリンを入れ終わった時にエンジンがかからない。困った私は家にいる息子の妻のリンに
電話をした。直ぐに来てくれてAAAの人が来てくれることになった。孫のマイケルも来てくれたが、
兎にかく何か部品を変えなければならないようで近くの店に行き、それを待っていた私だが、急に
気分が悪くなってへたへたと倒れてしまった。直ぐに救急車が呼ばれ二日の入院になってしまった。
原因はカリウムの問題だったがあの時、ガソリンスタンドに入らずにまっすぐ行っていたら大変な
ことになるところだった。守られていることをあらためて実感したことだった。

9.驚天動地の日

その日、少し離れたところにあるウォールマートで買い物をした私は、誰もいない留守の家に
帰って来た。ガレージのシャッターも閉まっている。キーを取り出そうとした私はショルダーバッグ
が無いのに気づいた。大変だ、バッグの中にはお財布が。お店に戻ろうとした私はあらためて免許証も
ないことに気がついた。鍵がないので家の中にも入れない。誰かに電話をかけようと思っても電話番号
が分からない。
バッグがないどこで忘れた驚天動地御名を呼びつつ 右往左往
その時、妹まきみの教会の電話番号だけ覚えてた。直ぐに電話をかけ助けを求め、
「祈ってくれる様に頼んだ。でも駆けつけてくれるとしても 30分かかる。
ところが15分後に息子から電話がかかって来た。
今妻のリンから電話があって、バッグを預かっている方のところに受け取りに向かうと言う。
私のバッグは、駐車場のカートの中に置き忘れて来た様で、見つけた方がウォールマートに
届けたど受け取ってくれなかったので、中を調べたらAAAのカードを見つけたので、そこから契約者としての
リンの名前に繋がったのだと言う。
何と15分間の驚天動地でした。只々感謝の1日でした。
届いてる 電話の声もうわのそらみ神の愛にこころつつまる

10.神様の道案内

二千一年三月にアメリカに到着、主人の心臓手術も無事に終わり、普通の生活を始めたばかりという
九月のことだった。アトランタにある日本人教会のメンバーに頼まれて、
家庭集会に出かけた。
この集まりは教会に集まるのではなく持ち回りでメンバーの方のお家を訪ねるという楽しみもある集まり
だった。この日は一時間ほど離れた高級住宅地にある千恵子さんという方のお家が決まっていて、私は
近くの方が車でお迎えに来てくれておしゃぺりをしながらドライブを楽しんでいた。
ところがそろそろ近くに来たかなと思われた頃から運転している方が無口になって来た。
そのうちボソッと地図を忘れて来たとつぶやかれた。でも、地図はよく見て来たから分かると思います、
と言われて私もそんなに深刻には受け取っていなかった。この辺だとおもうんだけど⋯と森の中にある
住宅のひとつの前に車を停めると彼女は車を降りて玄関に向かった。でも違った様。戻って来た彼女は
また考えながら車を動かしていたが、その内に車を止めて呆然とし、やがて携帯を取り出すとあちこちに
電話をかけ始めた。誰かに聞こうと思った様だ。でも、みんなお仲間の方々は今日の集まりの為、
出かけた後の様だ。
彼女はボソッと違う家のベルを押すのが怖い、と呟いた。呑気な私はそこで事態が深刻であることに
はじめて気づいた。そう。事件があった。ハロウィーンの変装をした若い子がいきなり銃で撃たれた
事件があったのだ。
やたらに知らない家のベルを押すと銃で撃たれることもあるということ。多分最初の家を間違えた時に
嫌なことがあったのだろう。もう一度ベルを押す勇気を失ってしまっている。
間は迫るけど仕方がない。私にできることは祈りしましょう、ということだけだった。二人で祈って
しばらくした時、彼女に勇気が与えられたのか、もう一度行ってみます、と近くの家に向かって出て
行った。そしてベルを押したところ、何と出て来たのは智恵子さんご本人だった。
そんな訳でその日の集会は、何も言う必要がないと思われるほど感謝感謝の集会になったのだった。

11.奇跡の座席

最後の一時帰国は、弟の体調が悪いと言われた二〇一八年の年末だった。日本に着いてすぐに
十二月初めには、友人のコンサートがあったりしてクリスマスを楽しみにしていた。ところが
何と前の日に妹が倒れ、救急車のお世話になるなど、大変なことになってしまった。
幸い二十九日には退院出来てホッとしながら昼食を取っているところに、弟のキトクの
知らせが入った。弟は仙台の先、くりこま高原の病院に入っていた。一番下の妹が八王子にいるので
連絡を取って別々に駆けつけることにしたが、何しろ年末帰省ラッシュの最中である。どうにもこうにも
指定席の切符を手に入れる方法が無く、退院したばかりでフラフラしている妹を連れて東京駅に駆けつけた。
予想通りの混雑で、自由席も長い行列が続いている。
ボーッとなってホームを歩いていると列車が人ってきた。ふらふらと乗り込むとそこは指定席の車両
だった。ホームも混んでいるので中を通って自由席まで行こうと歩き始めた時、二つの空席が目に入った。
来ていないけど誰か来られる席に違いない、と思われた。でも、その方が来るまでちょっと座らせていた
だこうと思って腰掛けた。ところが列車が動き出しても誰も来ない。だいぶ経って車掌さんが回ってきた
ので事情を話してお金を払おうとすると、「いや、今立ってくださればお金はいりません。それよりも仙台
で乗り換えると言われますが、仙台では違うホームでの乗り換えになりますが、今、この列車の後ろに来
る列車だと降りたホームで乗り換えられますから」と言われた。私たちはお礼を言って次の福島で降りた。
そして次の来た列車に乗り込んだのだが、ドアが開いた時、そこに二つの空席が目に飛び込んできた。
私たちは本当に驚き、夢を見ているような気分でくりこま高原まで辿り着いた。まさに天使にみちびかれ
て牢から解放されたペテロの様な気分であった。
その夜中、弟は静かに天の故郷に帰って行った。

12. 神様の優しさに涙

2019年9月19日の飛行機で日本に帰ることになった。
2001年3月に、最期の地と覚悟を決めて渡ってきたアメリカ生活だったが、前の年、
年末に帰にしの31日に弟を見送り、年が明けてから葬ませ、一月末に散骨に出かける途中で
倒れ、救急車で入院の騒ぎになってしまった。「いろいろ検査を受けて病状が分かった時、日本の
健康保険のありがたさを実感し、帰国する決心をした。再診の予定をギリギリ先に伸ばして出来る限りの
お薬をいただいて、アメリカに帰宅した。
四ヶ月である、少ないと言っても荷物の整理をしなければならなかったが、それよりも、広い範囲の
知人友人たちにお別れを言わなければならない。ここで帰ったら2度と来ることはないところである。
息子の妻リンが何くれと無く手伝ってくれた。チャールストンへのお別れ挨拶の旅もさせてもらった。
フロリダの妹牧実のところには息子が連れて行ってくれたし、娘夫婦には、テネシーめぐりの思い出
を作ってもらった。
いよいよ最後の晩、息子は出張で留守だったので、リンと孫たちと一緒にレストランでタ食をした。
その帰り、リンが手配してくれてあった教会に寄った。そこには三十人余りのクワイヤーのメンバーと
牧師が待っていてくれて、私のこの先についてお祈りしてくださる用意ができていた。
ただただ感謝で帰る途中、家が近づいた時、ここでの10年が思い出された。その中で、何回も
見かけた可愛い鹿たちを思い出した。「もう一度見たいなあ」と言う思いが湧き、神様につぶやいた。
さて、翌朝、6時に飛行場に向かって出発だった。
家を出て最初の角を曲がったところに、可愛い子鹿が一頭立ち止まっている。今日は逃げもしない。
静かに見送ってもらった私は、神様の優しさに圧倒されていた。黙っていられないで、タベのつぶやく
ような祈りをリンに告白したのだった。

終わりの言葉

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
全てのことについて感謝しなさい。
これが、キリスト イエスにあって、神が求めておられることです。

テサロニケ第―5:16〜18

神様を信じてからの生活の中にはこの三つが常に見えている筈だと言われる。また目標でもある。
今回特に私が取り上げたいと思ったのは「感謝」である。
神様にキチンと栄光をお返ししよう、ということだが、
全てのこと、の中には、私たちのうれしくない場面も含まれる。

それをどう考えるか、それでも感謝ができる理由についても書いておくべきだと思い、
このページを書いている。

第一に知っておくべきこと。
神は全能であり、なんでも出来る方であると信じること。
病気の癒やしでも、災害からの助けでも、不可能はない。

ならば、なぜ、私たちに苦しみがあるのか。
祈っても祈ってもその状態が変わらない時、とえれば良いのだろう。

私はよく神様は自動販売機のように、私たちの思い通りに答えてはくださらない、とお話ししてる。
その事が私たちにとって最善かどうかを判断してくださる。だからこ、そ、私たちは安心して何でも
祈る事ができる。これを信じる事である。

エレミヤ書29:11
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。一主の御告ーそれは
わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。


第二にしっかり覚えておくべき事

神様との関係。
神様に愛されている、ということは誰でも分かっていると思うが、その距離をチェックしてみよう。
神様との関係だと思われる。私たちの周りには信仰の先輩がたくさんおられる。聖書の知識も足りなく
思う。まだまだと思われるが、それは、神様との間に先輩たちがいることではない。
信仰に遠慮はいらない。神様が私を喜んでくださっているという確信を持とう。僻みと遠慮に
気をつけよう。私は一つの絵を見て気がついた。ある時友人に送る絵を探していて見つけたのは、
上の方でイエス様が手を広げて待っておられるところに、下から大勢の
人が登っていくと言う絵だった。その時、一瞬変な考えが頭をよぎった。天に着いた時、
イエス様とハグするのに行列になるのか、と思ったのである。
すぐに エレミヤ書 23章 24節 の言葉を思い出した。
「我は天地にみつる霊」とある。天国に行列はない。
遠慮もいらない。「我が主よ,我が神よ」と叫んだトマスのように、しっかりとその愛の関係を
見つめる事の大切さである。

ただ思うのは自分の弱さ、足りなさ、いくつかの許された罪の思い出。
だが同時に大きな大きな主の十字架であった。
御子イエスはこの世に来てくださった。人となって、
私たちの代わりに十字架での完全な死を遂げてくださった。
ご復活により赦しの道は完成した。

それを思った時に、パウロの言葉を思い出した。
「私には、私たちの主イエス キリストの十字架以外
に誇りとするものが決してあってはなりません。」

ガラテヤ 5:14

同時に神様が私たちを、何をしたからではなく、
「神の子どもである事」を喜んでくださっている事がわかった。
私たちが我が子に抱く思いではないか。これは歳をとって何もご奉仕ができない
自分になった時、今更のように大きな喜びである。
アメリカのフロリダにホーリーランドという遊園地のようなところがある。
中には聖書の展示場などもあるが、大きな池のそばにはイエス様の人形も建っていて
握手をすることができるし、ある道端では福音書に記されている主のご生涯が、
十字架から復活まで演じられていた。その入り口のところは広い座席が設けら
れていて福音が語られており、実際の伝道会がなされていた。大勢の天使の格好をした人が
飛び回っており、金色に輝く雰囲気の中で決心者と共に祈る姿を見ることができた。
あの天使たちの姿を思い出す時、私たちに最後までできることは、神様を賛美し感謝を捧げる
ことではないかと思わされる。

渡邉郁子

よかったらシェアしてね!
目次